シリコンバレーで「シリコンバレーから将棋を観る」の感想を書く

シリコンバレーに来てようやく、梅田さんの新著
シリコンバレーから将棋を観る―羽生善治と現代
が読み終わった。ここ1ヶ月くらいは、大好きな著者の本もまともに読めないくらいドタバタだったという反動を差し引いても、久しぶりに良い本に出会えた気がする。

さて、何を隠そう、僕は将棋が全く分からない。将棋を「指せない」だけではなく「観ても分からない」。なぜ僕が将棋を観ることもできないのかは、自分でもよく分からない。どちらかと言えば、将棋のような知的ゲームをとても愛する子供であったはずだ。将棋をする年代(小学校中〜高学年)よりもずっと小さい頃、僕はとてもゲームが強く、例えばオセロをやると同世代だけではなく大人にも負けなかった。本気でやるといつも圧勝してしまう。そしてそれは幼少期の子供には友達を減らす要因になりうる。子供心にそう思っていたのかもしれない。ただただ、僕は今も昔も将棋が分からない。そういう読者はもしかしたら本書の想定ターゲットではないかもしれないが、僕には十分得るものがあった。

将棋が分からない僕にとっての本書は、羽生、佐藤、深浦、渡辺という4名の超一流棋士の人物像を描いた書であるとも言える。超一流の棋士を観察することで、著者は超一流の定義をあとがきで次のように記している。

「超一流」=「才能」×「対象ゆえの深い愛情ゆえの没頭」×「際だった個性」

そして、続くその個性とは何かという部分で、羽生は「真理を求める心」、佐藤は「純粋さ」、深浦は「社会性」、渡辺は「戦略性」と見事なまでにエッセンスだけを抽出している。著者は、棋士たちとふれあい、彼らの将棋を観る中で、超一流とは何か、そして、彼ら4人各々の個性をここまで短い言葉で切り取っている。

ここまで本質的な個性を短い言葉で表現するのは、想像以上に大変な作業である。大きなリスクも伴う。著者がこの部分(私には一番本質的だと思える部分)をあとがきに記しているのは謙遜そのものだとも思える。そして、ここが「将棋を観ることも出来ない」僕にとって、一番価値がある箇所でもあった。というのは、この本は「将棋を観ることが出来ない人」にとっては経営学の教科書そのものだからだ。経営学とは「競争優位を作り出すための戦略立案の方法論」が研究対象である。戦略を作るのは人間である。従って、経営学の研究対象というのは本質的には人間そのものだ、ということにもなる。本書は、「超一流を構成する要素とは何か」という視点で読めば、経営学の教科書そのものだ。ここまで人間の本質だけを見事に抽出できたのは、著者が日頃からシリコンバレーのビジョナリーたちの言葉に耳を傾け続けてきたからに他ならないと思う。その意味に置いて本書のタイトルに「シリコンバレーから」という語が入っていることに納得がいった次第だ。(最初は単なるSEO狙いかとも思ったが。)

超一流のエッセンス以外にも学ぶべきことがあった。将棋界そのものの在り方だ。将棋が全く分からない私にも、将棋界の「高貴さ」が良く理解できた。本書から伝わってくる棋士には、煩悩が全くない。もちろん、経済的なインセンティブもない。ただただ、最高峰の知同士がぶつかりあい、より美しく将棋を進化させようとする、というそれだけだ。著者は、棋士は研究者に似ていると何度か表現しているが、その通りだ。研究者というのは、自らの知だけなく人生そのものをかけ、最先端の科学的知見を創造することに文字通り人生をかけている。彼らにも煩悩が全くない。煩悩がある研究者というのは(私も含めて)超一流ではない。以前、私が研究の道に戻る時に、指導教官は「研究者になるということは出家するようなものだよ。もし出家する(=経済的なインセンティブも社会的な名誉も全て捨てる)つもりがないなら、一生研究者で居ようと思わない方が良い」と言われたことがあるが、将棋の世界も全く同じだと思った。本書に登場する深浦は、小学校卒業後に家を出て将棋のための人生を歩むことになったとあるが、これはまさに「出家」そのものだ。超一流の棋士たちが文字通り、人生をかけて、美しい将棋を作り出し、普及しようとする。その清々しいまでの姿にあこがれを抱いた。僕も人間の根本の部分でそうありたいと思った。同じ文化と言っても、スキャンダルにまみれている相撲界とは全く異なる。将棋界がなぜこれほどまでに高貴であり続けられるのか。この質問を今度、著者にぶつけてみようと思う。

以上のように、本書は「将棋を観ることもできない人」にとっても多くの示唆を含んでおり、是非おすすめの一冊だ。

シリコンバレーから将棋を観る―羽生善治と現代

シリコンバレーから将棋を観る―羽生善治と現代