ラストサムライに見る映画文化の日米比較

今日、六本木ヒルズラストサムライを見てきました。

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タイトル通り、ちょいとお堅い文章になりますが、ご勘弁あれ。

私は、映画をよく見る方だと思う。とは言っても、割と有名なものをぱらぱらと見るだけであるが、主要なものはほとんど見ていると思う。映画は、ある意味、現実世界をある見方から投影したもののようで止められない。自分の思考の幅を広げてくれるように思うからだ。一昔前までは、タイタニック等、日本で大ヒットする映画はほとんどが米国製であった。が、近年、宮崎駿さん、北野武さんなど、日本人の映画監督もご活躍である。

さて、私は映画を見る時、必ず映画の”キーメッセージ”を読みとるように努めて見ている。本や音楽と同じで、一つの映画には必ず一つのキーメッセージがあるように感じる。本稿では、映画の主義・主張を分析することで、文化の日米比較を行いたい。

(以下、ラストサムライをご覧になってない方は、ほんの少しだけ内容の話があるので、ご注意ください。)

ラストサムライにおいては、トム・クルーズ演じる主人公は、人をあんなにも簡単に殺してしまう戦争に疑問を抱きながらも、侍と戦い、敗れる。その後、彼は侍の魂を学び、侍として今度は西洋科学を備えた軍と戦う。この映画のキーメッセージは、侍の生き方には、日本流の美しさがあり、欧米人もそれに見習う点がある、というものだと私は感じた。

ここで、主人公が敢えて、自分が今まで戦ってきた西欧の戦闘方法を嫌い、敢えて侍の道を選んだことが興味深い。(もちろん、米国人がこういった描写をしたことも、もちろん、興味深い。)ラストサムライでは、侍の生き方が正義という主張である。このように、米国人は”一つの正義”を主張することが多いように思う。

ところが、千と千尋の神隠しでは、千(尋)は二人の老婆との狭間で揺れ動き、共存する道を探ろうとする。千(尋)にとっては、生き方の違う二人の老婆のどちらもが正義であって、彼女自身、どちらが正義とも、主張していない。このように、日本映画では、正義とは”自分の置かれた立場から見た相対的な正義”であることが多い。(チームラボの猪子さん曰く、ドラゴンボールも同じで、悟空がサイヤ人と戦う理由は、サイヤ人が嫌いなのではなく、自分の大切な仲間を攻撃するからである、とのこと。事実、悟空は、ベジータ等と仲間になる。)

このように考えると、宗教の違い(キリスト教と仏教)が影響しているのであろうが、絶対的な正義を主張する傾向にある米国人と、あくまで相対的な正義を主張する日本人の文化的な違いが見て取れる。この点は例えば、僕の好きなプロレスにおいても見られる。日米では、ヒール(悪役)に対する考え方が違う。米国ではベビーフェイス(正義の味方)に対する対立項としての扱いだが、日本ではヒール自体に意義が認められている。米国ではヒール同士の試合はあまりないのに対して、日本ではよく見かける。

ラストサムライを見ながら、こんなことを考えていた。

P.S.
北野武さんの映画は必ずしも、日本型にあてはまるのかと、少し疑問に思っている。アドバイス等いただければ幸いである。
座頭市Brotherを見ている限りは、やはり日本型に近いようにも思う。正義 vs 悪という対立軸を引きつつも、その解釈に困る場面が多々あるからだ。